10月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ
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■政変後ー長州処分 【京】文久3年8月23日、因幡藩主池田慶徳・備前藩主池田茂政兄弟(前水戸藩主徳川斉昭の実子で慶喜とも兄弟)が連署して七卿・長州藩擁護の上書を提出しました。七卿・長州藩の行為は攘夷の叡慮を貫徹しようとしたためで、寛大な処分が必要だというものでした。米沢藩主上杉斉憲も同様の建白をしました。 <ヒロ> これらの有力諸侯は、朝廷から攘夷親征について度々諮問されており、即時親征に反対していました(参照:文久3年7月19日−関白、在京四侯らに攘夷親征を諮問)。政変の計画からは外されていましたが、政変決行後には400〜500名の藩兵を出して協力しています。『徳川慶喜公伝』では、長州・七卿寛大処分の上訴は、政変の計画時に蚊帳の外におかれた意趣返しではなく、挙国一致の上の攘夷を思う気持ちからだったのだろう・・としています。 政変に協力した有力諸侯が、必ずしも政変を起こした会津・薩摩両藩と同じスタンスにはなかったことがうかがえると思います。 参考:『徳川慶喜公伝』2、『修訂防長回天史』(四上)p528(2001.10.5) 【長】文久3年8月23日、政変の報が長州藩庁のある山口に達しました。 この日、京都から急いで西下してきた近藤登一郎から政変の報告を受けた長州藩は驚愕しました。前日に決まっていた世子毛利定広の上京について議論するはずだったのが、一転して政変への対応策協議の場となりました。 参考:『修訂防長回天史』(四上)p538-539(2004.10.31) 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」■長州藩日誌文久3 ■横浜鎖港交渉 【江】文久3年8月23日、将軍後見職一橋慶喜は登城して幕議に臨み、横浜鎖港を決定させるとともに、攘夷監察使の東下を朝廷に内請しました。、 幕府の攘夷政策:8.18政変以前、京都における攘夷親征説が激しいので、幕府では長崎・箱館・横浜の三港全部の閉鎖は無理だが、せめて横浜一港だけでも閉鎖して違勅を逃れ、そのうえで局面打開を図ろうとしていました。しかし、8.18政変後、老中の間では<京都の情勢が危ういので何をおいても(鎖港を据え置いても)将軍が上洛し、閉鎖の利害も奏上すべき>という考えが支配的になっていました。この日登城した慶喜は、板倉勝静とともに、<最近の乱のもとは全て外国問題に起因する。鎖港の上にこそ上洛すべきである>と論じ、幕議は横浜鎖港で決まりました。慶喜は幕議がまた動揺するのを恐れ、予防策として朝廷に攘夷監察使(のちの攘夷別勅使)の東下を内請しました。 参考:『七年史』一・『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2001/10/05) 関連:■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」 ■徳川慶喜日誌文久3 |
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